私は決して、当代一の印鑑職人ではありません。
私自身、そんなことを思ってもいません。
日本中を見渡せば、私より技術的にすぐれた職人は少なからずいることでしょう。
また、類稀なる芸術的センスを発揮して、私などとても思いつかないような素晴らしい印鑑を彫刻する若い職人を何人も知っています。
私自身のことで言えば、かつて拝刻したいくつかの天皇御陵印も、宮内庁から篆刻家・松丸東魚氏を通じて業界団体に打診があり、そこで選ばれた数人の中の一人に過ぎません。
(選ばれたこと自体は極めて光栄に思っています)
また、鈴木善幸氏、中曽根康弘氏の私印を手がけることができたのも、首相官邸から、当時私が彫刻の仕事をいただいていた虎ノ門の長澤印店(既に廃業)にその発注があり、同店の亡き長沢 頼宏社長がその大役に私を抜擢してくださったからに他なりません。
そんな私ですが、誇れるものがあるとすれば、昭和21年に13歳でこの道に入って以来約67年の間、愚直なばかりにまっすぐに、印鑑彫刻一筋で生きてきた、
ということくらいでしょうか。
概算ではこれまで彫刻した印鑑は60,000本と記されていますが、正確な本数は私自身にもわかりません。
しかし、ひとつだけ申し上げられるのは、
その中の1本たりとも、ほんの少しでも手を抜いたことは断じてない、
ということです。
天皇御陵印であろうが、総理大臣私印であろうが、わずか10㍉丸の小さい認印であろうが、目の前の1本に、常に全力で向き合ってきました。
それは「印鑑を彫ることが楽しくて楽しくてたまらない」からです。
ただただ、この上なく好きなのです、印鑑を彫ることが。
20歳のときに上京して、篆刻家・関野香雲に師事し、そこで書を習いに来ていた印鑑屋の跡取り娘と知り合い、やがて結婚、つまり婿入りしました。
結婚当初は創業者であった義父=妻の父=(これがまた典型的な明治の男で、実に怖い人でした)の手前もあり、店で客を待っていても仕方ないと思い、
勇気を振り絞って近くの区役所や図書館に飛び込みましたが、なにせ営業は未経験、けんもほろろで相手にもされませんでした。
がっくりとうなだれて店に戻ると、妻に「あなたには腕があるのだから、それを磨いてくれればいい」と逆に励まされました。
うれしいやら恥ずかしいやら悔しいやらで、涙がこみ上げてくると同時に
「これからは印鑑彫刻一筋で家族を食わせてみせる」
そう心ひそかに誓ったのを思い出します。
それから50年と少し、それなりに紆余曲折はありましたが、店の売上げ・経理(つまり経営ですね)は妻に任せきりで、ひたすら良い印鑑を彫り上げることだけに没頭してきました。
好きなことをやらせてもらって、妻には感謝するばかりです。
印鑑職人の修業は文字通り三日坊主で早々に断念し(笑)、それ以来、私とは正反対の営業畑を長く歩いてきた愚息が、今から12年前のある晩、
「親父の技術や人となりを紹介するホームページを作ってみようか。
注文が来るか来ないかは全然わからないけど、それはともかくとして、興味深く思ってくれる人がいたら、それだけでうれしいから」と、
珍しく興奮気味に話したのを、昨日のことのように鮮明に覚えています。
早いものであれからあっという間に12年が経ち、その間この「秀碩の工房」ホームページは、おかげさまで思いもかけないほど多くのお客様方にご愛顧いただいて参りました。
たくさんの印鑑を彫る機会に恵まれたことを、ほんとうに心からありがたく思っています。
私はひとえに、生涯現役でいたいと強く願っています。
この命が続く限り、いつまでも大好きな印鑑を彫っていたいのです。
数年前、誕生したばかりの娘さんの銀行印をご注文いただいたお客様から
「この娘が嫁に行くとき、新しい姓の印鑑を彫って欲しい、そしてできれば、娘が産む孫の印鑑も彫ってもらいたい」
という、何ともありがたい、励みになる注文のご予約をいただきました。
もっとも、それは「いつまでも元気で」という、お客様の優しいお気遣いなのでしょう。
現実的には、さすがにちょっと厳しいかとも思います。
それでも私は、なんとかしてそのご期待に応えたいと思っています。
そんな素晴らしい印鑑を、ぜひとも彫らせていただきたいと切望しています。
さあ、あとどこまで行けるか、私自身も楽しみです。
-平成24年(2012)1月20日、80歳の誕生日に不動前の工房にてー
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