奥沢~不動前の工房にて/秀碩WEB記念館

奥沢から不動前へ

at his studios

奥沢工房(1995-2007)

秀碩、奥沢工房にて彫刻中(撮影:サンラ出版)

■2002年 雑誌「力の意思」匠の極み~目からウロコの企業訪問~

印鑑彫刻一筋に生きる唯一無二の印影を刻む文字の職人

印刻士 松﨑秀碩さん(有限会社文福堂印房・社長)

職人とはその道を究め、プロとして仕事をしていく決意の人。
仕事に厳しく、妥協を許さない。
そんな職人を、日本人は昔から「匠」と呼んで尊敬した。
松崎秀碩さんは印章彫刻士(印刻士)として、歴代天皇の御陵印や首相私印も手掛けた伝説の印鑑職人。
彼もまた、本物の職人魂を持った真の匠だった。


日本最古の印鑑は北九州で発見された「漢倭奴国王」と刻まれた金印。
元来、土地の豪族や有力者たちが支配者の印と使用した。
ようやく明治の時代に入って、個人の印鑑登録制度が導入され定着するに至った。

伝統を有するものには必ずその道の達人・名人と謳われる人がいる。

松崎秀碩(しゅうせき)さん(70)もその一人。
印鑑彫刻一筋55年。
すでに半世紀以上、常に最高・最上を求め、印面に渾身の文字を刻んでいる。

「父の思い出といえばば、朝から晩まで印鑑を彫る後ろ姿だけ。 遊んでもらった記憶はほとんどありません」と、ご子息で同社運営統括責任者の松崎文一さんも語っている。
まさに筋金入りの職人なのである。


■印鑑との出会い

松崎さんは中学(高等小学校)卒業後、金沢の鉄道会社に就職。
線路の施設で砂利を運ぶのが主な仕事だった。
当時は戦後間もない頃、食料は乏しく、仕事はきついという厳しい環境にあった。

そんな中、たまたま遊びに通っていた隣の印章店から「働いてみないか」と誘われたのが、この道に入るきっかけとなった。

「運がよかったと言えば、いいんでしょうね。
その鉄道会社にはある程度勤めるつもりでいましたから。
でも食糧難がひどくて、ちょうど音を上げていたところだったんdねす。

それから4年後、技術を磨くために上京。
自転車で一軒、一軒、印章店を探しては「住み込みで使ってもらえないか」と飛び込んだ。

「当然、どこに行っても断られました。
ただ『ハンをやりたい』という思いだけで、東京に親戚はいないし、何も保障がなかったんですから」

幸運にも、日本橋のある印章店で使ってもらえることになった。
その後、いろいろなお店を回りながら技術の向上に努めたという。


■25歳で日本一に

転機が訪れたのは25歳のときだった。
なんと、初めて応募した大阪印章技術展覧会(今年50回目を迎える業界では伝統のある展覧会)で金賞を受賞、見事日本一に輝いたのだった。

「入賞してからがたいへんでしたね。
依頼が殺到し、朝は8時から夜は12時、1時が当たり前。
寝るのも忘れて彫り続けました。

その後、36歳のときに東京印章協同組合から技術講師に抜擢され、約20年間講師を務めることになった。
そこでの経験が、松崎さんにとって大きなプラスになったと言う。

「人に教えることでもっと勉強しなければいけないことを実感したんです。
はっきり言ってそれまでの十数年間というのは、一生懸命やってきたつもりでも実際は寝ていたも同然だったんですね。
 それからです。
本格的に書道の先生について勉強したり、漢字の歴史や文字に関する専門書を貪欲に仕入れては読むようになったのは・・・」

秀碩の工房 奥沢工房の書棚

松崎さんの工房には印や文字に関する書物がたくさん並んでいた。
何しろ印鑑に彫る文字は、大きく6つの書体(楷、行、草、隷、篆、古印体)があって、それぞれが約4千字もある。
それらすべてを注文に応じて彫れなければいけないのだ。
しかもデザインやレイアウトのセンスも必要。
松崎さんはこれを、ほとんど独学で習得したのだった。

「よい仕事をするということに関してはまったく苦になりませんでした。
肉体的に眠かったり、疲れたりということはありましたが、かみさん(七枝夫人)のおかげでやりたい仕事をやりたいようにさせてもらえた。
僕自身、精神的に追い詰められるということがまったくなかったんです。」

現在、この世界も機械化、IT化が進んでいる。
しかしこの傾向について、松崎さんは決して否定的な目で見てはいなかった。
「機械彫りが必ずしも悪いとはいえません。
結局は手をかけているかどうかなんです。
手で彫ってあっても下手なものは下手ですからね。
われわれの究極の目標は限られた時間の中で最上のものを作るということ。
私のように手で彫るのも貴重かもしれませんが、一番労力のかかる所を省力化して機械彫りにし、最初と最後はきちんと手でフォローする。
それも時代に合ったベストなやり方でしょうからね。

さすがに歴代天皇のご陵印や、中曽根康弘、鈴木善幸元首相からその就任当日に受注した由緒ある印章店からご氏名を受けたプロの言葉は重みが違う。

秀碩の道具たち

かつては多いときで1日10本。
今も毎日5、6本はこなしているという松崎さん。
「心の面で思い悩むことがあっては決してよい仕事はできません。
『体と心の健康を常に維持しなさい』と、講師時代には生徒に口をすっぱくして言っていました。
これは何の仕事にも言えることだと思います。

最近ようやく、時間的に余裕ができて様々な展覧会に足を運べるようになったという。
名人としての本領発揮は、実はこれからなのかもしれない。
匠の極は年齢を感じさせない。

秀碩、奥沢工房にて


秀碩、奥沢工房にて彫刻中(撮影:AP通信社)

■2003年 AP通信社写真部撮影、取材内容は不明。

秀碩、奥沢工房にて接客中(撮影:AP通信社)

■2003年 AP通信社写真部撮影、同じく取材内容は不明。



秀碩、奥沢工房にて接客中(撮影:日本テレビ)

■2005年4月16日放送 日本テレビ「ぶらり途中下車の旅 目黒線」より①

秀碩、奥沢工房にて彫刻中(撮影:日本テレビ)

■2005年4月16日放送 日本テレビ「ぶらり途中下車の旅 目黒線」より②

秀碩、奥沢工房にて説明中(撮影:日本テレビ)

■2005年4月16日放送 日本テレビ「ぶらり途中下車の旅 目黒線」より③



秀碩、奥沢工房にて彫刻中(撮影:東京新聞社)

■2006年11月6日 東京新聞社「職 解剖図鑑」

松崎秀夫さん(74)=写真=は印刻職人。
秀碩(しゅうせき)という名で、印章を彫り続けてきた。世田谷区奥沢に同名の工房を持つ。
「高等小学校を出てからだから、もう60年ほどやっています。これまでに彫った数ですか? 6万本近いかもしれませんね。

印章が正式に法的な地位を得たのは1873(明治6)年のこと。
太政官布告実印を押す近代の制度が認められた。

かつては一人前の社会人になると、自分の印章を作るような慣習があった。
今は認め印なら100円ショップでも容易に買える。
まして松崎さんのような、手彫りの職人は極めて少ない。
「都内に10人もいないでしょう」

台湾で生まれ1歳の時、父の故郷の金沢に引き揚げた。
「材料さえあれば、一人でできる」ところが気に入り、この道へ。
20代半ばで、大阪印章技術展覧会という全国規模の競技会で金賞を受賞。
その後、さらに研さんを積み、労働大臣検定の印章彫刻一級技能士試験に合格。
手掛けた印章の中には中曽根康弘、鈴木善幸、塩川正十郎、加藤紘一など著名政治家の名も。
だが「後で気づいた人もいます。一般の方の方が時間をくださるので、ゆっくりと彫れるんですよ」と事もなげだ。

良い印材を問うたら「水牛の黒や白の角は粘りがあってよい」という返答だった。



秀碩、奥沢工房にて

■撮影年不明 お客様とのツーショットから抜粋。
写真撮影のときは顎を引くようにいつも言っているのですが…。

不動前工房(2007-2013)

秀碩、不動前工房店頭にて

■2007年 世田谷・奥沢工房の立ち退きにより目黒・不動前に移転。
新たな工房店頭にて、お客様から頂戴したお祝いの花とともに。



不動前工房店舗外観(撮影:テレビ東京)

■2012年9月15日放送 テレビ東京「出没!アド街ック天国~目黒 大鳥神社~」より①

不動前工房店内①(撮影:テレビ東京)

■2012年9月15日放送 テレビ東京「出没!アド街ック天国~目黒 大鳥神社~」より②

不動前工房店内②(撮影:テレビ東京)

■2012年9月15日放送 テレビ東京「出没!アド街ック天国~目黒 大鳥神社~」より③

秀碩、不動前工房にて彫刻中(撮影:テレビ東京)

■2012年9月15日放送 テレビ東京「出没!アド街ック天国~目黒 大鳥神社~」より④



秀碩、奥沢工房にて接客中

■2010年 知人ご夫妻のお子さんと。

■2022.03.03追記:
このお坊ちゃんもすでに高校1年生。
バスケットボール部で活躍する彼は身長180cm、そしてなんと9頭身!
さぞかしイケメンにお育ちでしょうが、お母様曰く、
「この写真の頃の可愛らしい面影は今やどこにもありません(苦笑)」
いやはや、時の経つのは早いもです。


本日はご多忙の中をご来館いただき、まことにありがとうございます。
厚く御礼申し上げます。

またのご来館を、父・秀碩ともども、心よりお待ち申し上げております。

秀碩、満面の笑みでお見送り